裁判員制度の「モデルケース」

まずはこちらの記事をご参照ください。


昨年4月、江東区潮見のマンションで、若い女性が突然行方不明になった事件の裁判です。
事件の詳細については、御存知の方も多いと思いますし、内容が内容ですので、此処では触れないでおきます。


この記事では、先週から集中的に行われている公判の模様が、テキストライブに近い形で報道されています。
公判中、犯行の残忍な手口や、被告の人間性、証拠の提示、被害者御遺族の悲痛な叫びなどがそのまま記事になっていて、単にテキスト文書を読んでいるだけでも、読み進めるのが憚られるような所もあり、まともな神経ではとても読める気力が続きません。


公判の法廷では、証拠となる画像や、犯行の手口を示した図なども使って説明されていたのですから、公判の場にいた人たちは、その凄惨さに思わず席を立って目を背けたくなるような時もあったはずです。
御遺族の方々は、被害者の彼女のためにも、全てこの目で確かめるんだ、と、悔しさや辛さと戦いながら最後まで傍聴されたとのことで、その心境は如何ばかりであったか、察するに余りあります。


この公判ですが、今後行われる「裁判員制度」に対するモデルケースとして、尋問や証拠提示のやり方を、裁判員がいる事を想定しながら行ったんだとか。
裁判員制度で行われる裁判は凶悪事件が対象ですから、確かにこの裁判はその対象となるものでしょう。


だけど、テキストで読んでいるだけでも辛くて仕方ないこの裁判に、実際に裁判員として出席していたら、一体どれだけの衝撃や、心理的ダメージを受けるか・・・。


想像に難くありません。


逆に言うと、こういう事件を日常的に取り扱って、冷静に処理に当たっている裁判官、検事、弁護士の方々のプロ意識は相当なものだ、と頭が下がります。
でも、凶悪事件に関わった事もない大部分の人が、裁判員として裁判所に呼ばれ、公判で被告の具体的な犯行手口の供述を聞いたり、裁判の証拠調べで凄惨な現場写真を見せられたら、とても冷静な判断なんて出来るとは思えません。


前にも書きましたが、人が人を裁く、と言うのは非常に重い事なんです。
そう言う事に、敢えて一般の人たちを無理矢理にでも裁判に参加させる意義って、一体何処にあるんでしょう?


非常に疑問です。