昭和63年10月19日

今日は昨日に続いて西武−日ハム戦をTV観戦。
3回までに日ハムが4点先制した所まで見ていたんですが、14:00からBS日テレ早大−明大の2回戦があったので、そっちを見てしまいました。(^_^;;)
斎藤君は出てませんでしたが、両校譲らず0対0で6回表、明大の攻撃中に16:00を迎えて中継打ち切り・・・。
まぁ、6大学のTV中継なんて、斎藤君が出てなければ社会の関心は薄いんだろうけど、それにしても冷淡過ぎるよ。
中継がないよりはまだマシ、と思うべきなんですかねぇ。


なのでCSの途中経過はちゃんと見てないんですが、チャンネル戻したら8回表2死3塁、6対3で日ハムがリード。
9回にも1点を追加した日ハムが、9回裏の西武の反撃をしのいで、7対4で勝利。
これでお互い2勝2敗、これからが勝負ですな。


さて、10月19日、となれば、とりわけパ・リーグのファンとしては、「10.19」を思い出さずにはいられますまい。
丁度今年が、あの「10.19」から20年。
節目の年として、20周年イベントなるものも開催されているそうです。


「10.19」で検索するだけで、当日の出来事を語る物凄い数のサイトが引っかかってきます。
それだけ多くの人の関心を集め、今なお語り継がれる伝説と化しているのは、御存知の通り。
しかもその結果優勝した西武の事は殆ど語られず、近鉄の事ばかりに焦点が当たり、相手役としてロッテが多少書かれている程度。
まさにこの時こそが、「近鉄バファローズの日」でありました。
優勝できなかったチームのことが、此処まで伝説として語られるのは、おそらく後にも先にも、この年の近鉄だけかもしれません。


当時の私としては、この2年前(1986年)も、近鉄は西武にあと一歩の所で優勝をさらわれている事から、再び西武との優勝争いを続ける中、今度こそ近鉄に優勝して欲しい、と思っていました。


私自身、当時は大学生でしたから、10.19の事はリアルタイムで見ることが出来た世代です。
だけど、当日は学校の授業や実験、その他学内の用事で学校に残らざるを得ず、現地川崎球場に行くことが出来ませんでした。
学校を出たのは22:00頃、家の最寄り駅に着いたのが23:00過ぎで、もう既に試合終了。


この時の、まさに「死闘」であった、ダブルヘッダーの様子を知ったのは、後刻スポーツニュースを見たり、特集番組を見てからです。
今でも現地に行けなかったこと、行けないならせめてTV中継だけでも見ておけば良かった、と悔やまれてなりません。


当時携帯やインターネットなどの代物はなく、家に着いてニュースを見るまで結果を知る術はありませんでした。
なので駅に着いて聞いた「川崎球場テレフォンサービス」で結果を聞いた所、「本日の試合は、第1試合4対3で近鉄の勝ち、第2試合は4対4の引き分けでした・・・」と、無味乾燥なテープ案内から、近鉄の優勝が消えたのを知ることになりました。


正直この時、「野球というものに神がいるのであれば、2年前と言い今年と言い、近鉄に何という残酷な仕打ちをするんだ・・・。」と、(近鉄ファンではないんですが)近鉄の悲劇を嘆かざるを得ませんでした。
そして家に帰ったら、この日阪急ブレーブスが、オリエント・リースなる会社に身売りされる、というニュースが流れていたことも知り、南海に続き、名門球団が無くなってしまうとは・・・と、更に衝撃。
当時、「オリエント・ファイナンス」という金融業が羽振りをきかせていて、この会社に買収されるのか、と勘違いしてました。


その年の日本シリーズは、殆ど関心もなく、丁度時間の空いた日に、第3戦をTVで見た位で、気づいたら西武が日本一になっていた、と言う感じで、各試合の経過がどうだったとか、記憶してないんですよ。
個人的ではありますが、10.19のインパクトがあまりにも大きすぎて、その主役である近鉄が敗れ去ったこと、そして昭和天皇の病状が悪化し、社会的な「自粛」ムードの中、世の中の関心も、日本シリーズに向かなかったように感じています。


話はテレホンサービスの無味乾燥なテープ案内に戻りますが、次の日の試合案内が流されていました。
「明日は、対南海最終戦、18:10試合開始です・・」とのこと。
そう、翌日は川崎球場南海ホークス最後の試合が開催されるんです。
それを聞いて、私は「次の日は必ず行くぞ!!」と、心に誓ったのでありました・・・。


この話は、また明日にでも。