忘れられない記憶

突然、「○年前の×月△日、貴方は何処で何をしていましたか?」と聞かれたら、よほど記憶力が良いか、毎日欠かさず日記を付けてる人でもないと、その時の自分が何をしていたか、なんて答えられないですよね? 普通。


が、「昭和60年(1985年)8月12日」に何があったか、御存知の方は多いと思います。


この日「日航ジャンボ機墜落事故」と言う、航空史上希に見る大事故のあった日です。


その時私は、何処で何をしていたか・・・・・。
当時高校生、丁度夏休みの真っ最中でした。


当然授業はないのですが、その時も学校に出て部活動の練習をやってる連中がいました。
私の高校には合宿用の宿泊設備があり、部によってはそこに泊まり込んで合宿する、なんて所もありまして、私はそこに夕方から乱入し、合宿やってる連中とどんちゃん騒ぎをして、夜遅くまで遊び呆けていました。
当然ニュースやTVなどは全く見ていませんでした。


そんなこんなで家(現在の実家)に帰ってきたのは夜1:30位。
私の家族は結構宵っ張りで、夜の1時や2時くらいまで平気で起きてましたから、そんな時間に帰ってきても、普通にみんな起きてTVを見ていました。
が、そのTVの様子が少々おかしい。家族の様子も普段とはちょっと違う。
TVにはカタカナ文字の名前が延々表示されてる・・・・。


何か変だ、と思い、家族に「どうしたの?」と聞いたら、「日航のジャンボ機が行方不明になっちゃったんだって!!!」と衝撃の一言・・・・。
このテレビに延々表示されているカタカナの名前は、乗客名簿を読み上げてるんだ、と気づくのに、時間はかかりませんでした。


TVは軒並み報道特番、この事故を各局揃って「大変なことになった・・・。」と報じていました。
見ているうちに、その名簿に坂本九さんのような著名な方や、自宅が家の近所にある方などの情報が次から次へと出てきて、「自分の知り合いは乗ってなかっただろうか・・・・。」とTVに釘付けになっていました。


私が物心ついてから当時まで、報道で聞いていた事故では最大最悪の事だっただけに、「とんでもないことが起きてしまった」というショックで、明け方まで眠ることもできませんでした。


結局私や家族の身内や友人、知人の中に、事故に巻き込まれてしまった人はいませんでしたが、それでも一気に500人以上の人が亡くなってしまった訳ですから、自分にとって物凄い衝撃を受けた事故でした。
周りに犠牲者のいなかった私ですらこれだけの衝撃ですから、亡くなった方の家族、友人、知人の方々のショックは、どれほど辛かったか、察するに余りあります。


私自身、この「8月12日」が来る度に、あの時の記憶が蘇ってきてしまいます。
また不思議なことに、この事故報道をリアルタイムで知っている世代の方々に話を聞くと、今になっても、「事故の一報を聞いた時、自分が何処にいて何をしていた」というのを、程度の違いはありますが、殆どの皆さんがよく覚えているんですよ・・・・・。


何事もなく、何気なく過ぎていく日常、って言うのは、時が経つと細かいことは忘れてしまうものですが、これだけの大惨事が起きた時のことは、皆さん忘れ得ぬ記憶として残ってしまうものなんですね。


この事故から今日で丁度23年。
JALのサイトには、この当日でもこの事故に関する記述は一切ありません。
何処かリンクを深くたどれば書いてあるのかもしれませんが、事故の当事者なんですから、せめてこの日だけでも「メインページへ、誰が見てもすぐ判る所に」この事故を心底反省し、犠牲者のご冥福を祈り、二度と事故を起こさない旨の声明を載せておくべきじゃないんですか?
それがせめてもの反省の姿勢、そして乗客の命を預かる者の努めだと思うのです。


23年過ぎても、御遺族の方々には、あの事故で受けた傷が癒えているとは思えません。
だから、この事故を知った我々のような世代も、決して風化させてはならない事故だと思います。


人々から忘れ去られて、安全の意識が欠落した時、また同じ事故が発生してしまうことこそ、あの時以上の最悪の悲劇ですから・・・・。