追悼・大沢親分
今日、大沢親分の訃報が飛び込んできました。
残念ながら選手時代や東京オリオンズの監督時代はリアルタイムで見ることはできず、私が大沢親分を知ったのは、日ハム監督の時代からでした。
その頃、初めてのリーグ優勝を成し遂げ、その親分肌から師匠である鶴岡親分同様、いつしか「大沢親分」と慕われた所に、その人柄が伺えます。
試合後のコメントも、なかなか独特で面白かったですねぇ。
・打線爆発して大勝した試合
「打線なんて『国電の切符』だからなぁ・・・。」
→国電の自動販売機で売ってる近距離切符は当日限り有効なので、
明日は使えない=明日も打てるとは限らない、と言うこと。
・投手陣が炎上し、大敗した試合
「便所の火事ではなっ。」
→ヤケクソな気分、と言いたかったらしい。
・千葉マリンで伊良部君に抑えられて負けた試合
「千葉の海で『イラブ』って名前のクラゲに刺されちまったよ・・・。」
→その後伊良部君は「イラブクラゲ」と呼ばれるようになり、ロッテ球団が
便乗商法して、背番号18をつけたクラゲグッズが販売されるほど流行。
誰かまだ持っている人いませんかぁーーーー!!(笑)
・1993年シーズン終盤、西武との優勝争い中に痛い一敗を喫した試合
「本当、泣きたいよ。『エンエンエーン』と言って泣きたいよ。」
→実際に「エンエンエーン」という擬態音でコメントした監督も珍しいのでは?
・1994年シーズン最終戦、前年僅差の2位から最下位転落して、引責辞任。
その時、試合後のスピーチで、東京Dの内野、外野スタンドに向かって土下座。
→最終戦後、「成績不振で申し訳ない」という監督の挨拶はよく聞きますが、
まさか土下座までするとは・・・。
私がパ・リーグに興味を持ち始めた頃、大沢親分は日ハムのフロント入りしていましたが、監督時代の部下だった選手達がベテラン選手/コーチとなっていて、「大沢一家」のような家族的チーム、と言った雰囲気であったと記憶しています。
その時、近所の精肉店から後楽園球場の日ハム戦招待券を何枚も貰っては(誰も貰わないので余りまくっていたせいか(^_^;)、店の人に頼むと気前よく頂いたものです)、招待券片手に試合を見に行ってました。
その時は記録をつけていなかったんですが、これがきっかけとなって、私の球場通いが始まり、現在に至る、と言った形でつながって行きます。
当然パ・リーグの球団で最初に興味を持ったのはファイターズでして、最初はこのチームを応援しておりました。
が、その後ホークスファンの先輩に出会って、一緒に川崎・屋根のない西武球場へ連れて行って貰っているうちにホークスファンの知人が増え、気づいたら結局ホークスファンとして流され、最早戻ることはできなくなっていました(笑)。
この先輩に会わなかったら、私は今でもファイターズファンだったでしょうねぇ、きっと。(^_^;)
選手時代からコーチ、監督、フロント時代すべてパ・リーグ一筋で現場に立ち続け、「パ・リーグの鑑」とも言える大沢親分の御逝去を悼み、謹んで御冥福をお祈りさせて頂きたいと思います。
そして間接的ではありますが、こういった形で球場通いのきっかけを作っていただいた事に、心から感謝申し上げます。